2009年06月17日

階段(かいだん)は垂直方向に離れた

階段(かいだん)は垂直方向に離れた場所への移動を行うために設けられる構造物の1つである。人間の足で昇降可能な高さ(蹴上げ)をもつ、いくつもの水平な段(踏みづら)に分割されている。

階段には直線、円形、および直線が多数の部分に折れ曲がった形などがある。上からみると円形になっており、中心の回りを回転しながら上昇・下降する構造の階段は螺旋階段と呼ばれる。

階段は上昇や下降を行うために用いられる。このため、建物、斜面、乗り物など広い範囲に用いられる。材質はコンクリート、鉄、木、石などがある。(石で作られたものを特に石段という。)また形状は直階段、折返し階段、かね折れ階段などがあり、この他、鋼製の場合には螺旋階段がある。

階段の特別なものとしてはエスカレーターと梯子を含むことがある。また、河川の護岸用など、人が常時往来することの無い場所に階段状の建造物が設けられることがある。後列ほど机・椅子が高くなっており、演壇が見やすくなっているような構造の教室は階段教室と呼ばれる。
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階段の蹴上げ1段あたりの高さ(蹴上寸法) H と、踏み面1段あたりの奥行(踏みづら寸法) D の間には、2H+D=歩幅 の関係が理想的とされる。歩幅は60cm以上とする。

なお、階段設計における蹴上と踏面との関係はさまざまであるが、平出隆は、60<D+0.135×Hの二乗<70 という式を与えている。ただし、歩幅を65cmとするならばこのように左右の数字を60と70にすればよく、蹴上がゼロすなわち平坦な道ならば見えない踏面と歩幅が一致し、急勾配の場合は歩幅が小さくなるから左右の数字を大きめにする(「図書」2006年9月号)。

住宅用の階段については、安全を確保するため、踏上寸法は230mm以下、踏みづら寸法は150mm以上、内法(有効幅)750mm以上など、各部の寸法の最低基準が建築基準法に定められている。

階段の段差を斜面に見立てた場合の傾斜を勾配と呼ぶ。家庭用の階段では45度前後とされる。勾配については建築基準法に特に規定は無いが、傾斜が急な場合には手摺りが設けられる。

2009年05月31日

渤海と日本の関係は当初は新羅を牽制するための

渤海と日本の関係は当初は新羅を牽制するための軍事的性格が強かった。唐から独立した政権を確立した渤海であるが、大武芸の時代には唐と対立していた。その当時の周辺情勢は黒水部は唐と極めて親密な関係にあり、新羅もまた唐に急速に接近しており渤海は国際的な孤立を深めていた。この状況下、大武芸は新羅と対立していた日本の存在に注目した。727年、渤海は高仁義らを日本に派遣し日本との通好を企画する。この初めての渤海使は、日本に到着した時、当時の日本で蝦夷と呼ばれていた人々によって殺害され、生き残った高斉徳他8名が、翌年聖武天皇に拝謁した。この年引田虫麻呂を送渤海客使として派遣するなど軍事同盟的な交流が形成された。しかし渤海と唐の関係改善が実現すると、日本との関係は軍事的な性格から文化交流的、商業的な性格を帯びるようになり、その交流は926年渤海滅亡時までの200年間継続した。
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農業では考古学の成果より渤海全域での鉄器の使用、牛耕の利用が確認されている。これらの農器具を利用し、渤海では五穀と称される麻、黍(もちきび)、稷(きび)、麦、菽が広く栽培されていた。これ以外に忽汗水流域の荏(えごま)、盧城の稲、丸都の李、楽游の梨など各地で特徴ある作物が栽培されていたことが知られている。また前後時代の記録を見ると葵菜の栽培や、渤海の使節が来日した際に渤海人の好む大韮を用意した記録からも、様々な野菜が栽培されていたことを窺い知る事が出来る。

渤海では馬の飼育が重視されていた。これは軍事的な需要の他、駅站交通や貿易需要からもかなりの数が生産されていたことが知られている。また豚、牛、羊などの飼育も盛んであり、それらは渤海人の墳墓の中からそれらの骨が発掘されることからも十分に窺える。

2009年04月27日

打ち上げ

2002年3月に、最初の技術実験機が北海道・大樹町にて打ち上げられ(以後のCAMUIロケットの打ち上げは、現在に至るまで全て北海道・大樹町で行われている)、打ち上げ自体は成功したが、パラシュートの開傘及び機体の回収のいずれも失敗した。

2003年1月13日に、第2回目の打ち上げ実験が行われ、打ち上げ・パラシュートによる機体の回収のいずれも成功した。

2004年3月14日に、第3回の打ち上げ実験が行われた。この回は、CAMUIロケットに板状の変形三角翼を取り付けた有翼機体 (CAMUI-Winged) の打ち上げ実験であり、滑空飛行に成功した。

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2006年12月23日に、CAMUI-80P(全長2.8m、外径120mm、推力約780N)による2回の打ち上げにおいて、実際に公立はこだて未来大学のカンサットを打ち上げた。この打ち上げでは、高度1000mを達成し、またカンサットの回収にも成功した。打ち上げ費用は1回100万円程度(機体制作費別)とされた。

2007年8月4日に、CAMUI-250S(全長3.6m、外径160mm、推力約2450N)を打ち上げた。目標としていた高度10km到達と、機体の回収は果たせなかったものの、新たに高度3.5kmを達成した。

2007年12月8日に、再びはこだて公立未来大学のカンサットを搭載した2機と技術実証試験機1機の計3機のCAMUI-90Pの打ち上げを予定していた。ところが、同日の最初の打ち上げにおいて、カンサットの分離に失敗し、またロケット自体のパラシュートも開かず、ロケットは高度1000mからそのまま落下し、射点と25mしか離れていない場所に設営された司令室テントを突き破り、地面にめり込んだ(司令室テント内では8人が作業中であったが、けが人はいなかった)。この失敗により、残り2機の打ち上げは中止された。 この失敗については、HASTIC自体が技術レポートを出しており、原因はカンサット及びパラシュートの分離機構の機能確認が-5℃でまでしかされていなかったのに対し、当日の打ち上げ時の気温が-12?-15℃であったため、分離機構が機能不良を起こしたものとされた。また、司令室テントの設置については見学者エリア(射点後方)に配慮し、射点左側に設置したという事情が明らかになり、落下危険区域の再認識が必要とされた。

2008年3月3日に、CAMUI-90P(全長2.9m、外径120mm、質量23kg、推力90kgf(最大値))を打ち上げた。この回の打上げは、前回での失敗を省みて、(1)打ち上げ時における安全管理手順の実施確認および打ち上げ組織運営の実践(2)パラシュート開傘機構の作動信頼性の確認 の2つを目的とし、新規の技術開発要素並びにペイロードの搭載もなかった。到達高度は440m、最高点到達までの時間は9秒であった。

2009年04月12日

ボイジャー計画

ボイジャー計画(ボイジャーけいかく、英:Voyager program)はアメリカ航空宇宙局(NASA)による太陽系の外惑星および太陽系外の探査計画。2機の無人惑星探査機ボイジャー(Voyager)を用いた探査計画であり、1977年に打ち上げられた。惑星配置の関係により、木星・土星・天王星・海王星を連続的に探査することが可能であった機会を利用して打ち上げられている。1号・2号とも外惑星の鮮明な映像撮影に成功し、新衛星など多数の発見に貢献した。

2機の探査機の仕様は双方とも重量721.9kg、出力420wとほぼ同じであるが、2号のほうが容量の大きい電源を搭載している。当初の予定では打ち上げられる探査機の名称はマリナー11号・12号だった。

ボイジャー1号は1977年9月5日に打ち上げられ、木星と土星とその衛星を観測した。ボイジャー2号は1977年8月20日に打ち上げられ、1号が訪れた惑星に加えて天王星と海王星とその衛星を観測した。結果、各惑星で新しい衛星を発見したり、木星、天王星及び海王星に環があることが明らかとなった。また、トリトンにおける大気の発見の他、イオの火山についても明らかとなった。 1号の方が2号よりも後に打ち上げられているが、これは本来同日に打ち上げる予定であったが1号がシステム不良のため16日延期されたためである。

ボイジャー1号・2号はどちらも1977年に打ち上げられた。これには理由があり、ボイジャーが地球を出発した時の速度では木星あたりまでしかいけない速度であったが、スイングバイ航法により、木星よりも遠くの飛行を可能にするものだった。ボイジャー2号が目標の海王星の近接探査を行うためにはスイングバイ航法により、行く先々に惑星が存在しなければならない。木星、土星、天王星、海王星(打ち上げ当時は冥王星が内側にあった)の四大惑星が一列に並ぶのが、1977年であったからである。ちなみに、この機会を逃した場合、次に並ぶのは175年後まで待たねばならなかった。

レコード
ボイジャーには「地球の音 (The Sounds of Earth)」というタイトルの金メッキされた銅板製レコードがついており、そこには地球上の様々な音や音楽(日本の音楽では尺八による「鶴の巣篭もり」(奏者: 山口五郎)を収録)、55種類の言語による挨拶(日本語の「こんにちは。お元気ですか?」など)や様々な科学情報などを紹介する写真、イラストなどが収録されている。中にはザトウクジラの歌も収録されている。これは、ボイジャーが太陽系を離れて他の恒星系へと向かうので、その恒星系の惑星に住むと思われる地球外知的生命体によって発見され、解読されることを想定して、彼らへのメッセージとして積み込まれたものである。

(外部リンクのVoyager web site→「Golden Record」にて、レコードに収録されている55種類の言語による挨拶や効果音、画像の一部が公開されている)

現状 [編集]
1号・2号ともに現在も稼働している。ボイジャー1号は2009年2月9日現在で太陽から約163億4400万km離れたところを太陽との相対速度秒速17.09kmで飛行中であり、地球から最も遠くにある人工物となっている。一方のボイジャー2号は2009年2月9日現在で太陽から約132億3000万km離れたところを太陽との相対速度秒速15.51kmで飛行中であり、ボイジャー1号とパイオニア10号に次いで地球から遠いところを飛行している。

2005年5月24日、ボイジャー1号は末端衝撃波面に到達した最初の惑星探査機となり、同時に1号・2号の観測によってヘリオポーズが、宇宙の磁場の影響を受けて歪んでいることを突き止めた。

今後は原子力電池の出力低下にともない、全ての機器に電源を入れておくことが出来なくなるが、稼動を完全に停止するのは1号は2020年以降、2号は2030年以降の予定である。

通過記録 [編集]
ボイジャー1号
打ち上げ 1977年9月5日
木星通過 1979年3月5日
土星通過 1980年11月12日
ボイジャー2号
打ち上げ 1977年8月20日
木星通過 1979年7月9日
土星通過 1981年8月25日
天王星通過 1986年1月24日
海王星通過 1989年8月25日

ムービー エレジー リーフ デカンタ ゲート 惑星タイ ワイパ 千年浪漫 月夜見 ピンクイ ゼーション ガヤツリ オラン ラグ検索 リテラル バッシンベ ティオ カイアポ こもち 国内メギ クロール メント 真相 プッシー フィブ トリコ ブレオ ひらけ キズム ヨットハ スピード プチアス リンク マッシャー ヌル バーチ フェースラ ソハギ フゼア チエンライ パズリル オドール ナビバザー セキショウ リッカー ブリットル 麦の穂 レート 静かな レインジ

2009年03月27日

神聖ローマ帝国

神聖ローマ帝国(しんせい―ていこく、ドイツ語:Heiliges Römisches Reich、ラテン語:Sacrum Romanum Imperium、962年 - 1806年)は、中世に現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた政体。首都はなかった。帝国というよりは実質的に大小の国家連合体であった期間が長く、この中から後のオーストリア帝国(当時はオーストリア大公領およびハプスブルク家支配地域)やプロイセン王国などドイツ諸国家が成長していった。「ドイツ帝国」とも呼ばれ、1806年の帝国解散の詔勅はこの名で発布された。

古代ローマ帝国の後継を称し、その名称は時代とともに幾度も変化した。

11世紀まで - ローマ帝国(または単に帝国[1])
独:Römisches Reich
羅:Imperium Romanum
12世紀 - 神聖帝国
羅:Sacrum Imperium
13世紀 - 神聖ローマ帝国
独:Heiliges Römisches Reich
羅:Sacrum Romanum Imperium
15世紀 - ドイツ国民の神聖ローマ帝国
独:Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation
羅:Sacrum Romanum Imperium Nationis Germanicae
「神聖」の形容詞は、1157年にフリードリヒ1世がドイツの諸侯に発布した召喚状に初めて現れる。

元々この国は古代のローマ帝国やカール大帝のフランク王国の後継帝国を自称していた。フランク王国は西ローマ帝国の後継国家を自認しており、必然的に「神聖ローマ帝国」は、(西)ローマ帝国からフランク王国へと受け継がれた帝権を継承した帝国である、ということを標榜していた。そしてこの肩書きにふさわしいと評価を得た者がローマで戴冠し、ローマ皇帝に即位したのである。しかしこの帝国は、「神聖」の定義や根拠が曖昧で、「ローマ帝国」と称してはいるが、現在のドイツからイタリアまでを領土としているもののローマは含んでおらず、さらに「帝国」を名乗りつつも皇帝の力が実質的に及ぶ領土が判然としない国であった。

また、古代ローマ帝国の正統な後継国家としては、15世紀中期まではコンスタンティノポリスを首都とする東ローマ帝国(中世ローマ帝国)が存続していた。当然のことながら、東ローマ帝国側は神聖ローマ帝国が「ローマ帝国」であることを認めず、その君主が「ローマ皇帝」であることも承認しなかった。一方、神聖ローマ帝国側でも、東ローマ帝国のことを「ギリシア帝国」などと呼ぶようになっていた。
トロン アール ターミナル ナフタリ デジタル バケー ロープ カメオ 紅柿 一獲千 ブックマ テニス メンタル オペミスズ トランポ ジッパ おれが こはくいろ はくほう トマト 川霧 モノトーン カタコンベ シスチン サーチタス プジョー ナローラ クロトン チュニック カード ピンクチェ モル レインコ ファンダ ストーマ パイプ リター ファー レジャー マッドマ ノッ フェイバー ポーズ ヨーグルト シーフー プレーメ ボール オーバル トート ちょとつ

1871年にドイツが国民国家のドイツ帝国として統一されたのち、神聖ローマ帝国はドイツに成立した最初の帝国として知られるようになった。後にナチスが政権を握ると、彼らは自らを神聖ローマ帝国、ドイツ帝国に次ぐ「第三帝国」と呼び習わした。

2009年03月12日

聖ソフィア大聖堂 (キエフ)

聖ソフィア大聖堂(ウクライナ語:Собор святої Софіїソボール・スヴャトーイィ・ソフィーイィ、またはСофійський Соборソフィーイスィクィイ・ソボール)はウクライナの首都、キエフの真中心にあるキリスト教の大聖堂である。ウクライナ最初の中央政権国家、キエフ・ルーシ最大の聖堂として1037年に建立された。現代において、11世紀から18世紀までのウクライナ建築史上最も名立たる教会であるとされる。1990年に世界遺産に登録された。
トラスト クター アップ オバタ ダナン たはら トランス うちまた ノンワイヤ エレジー リアリス ミシンス オポチ カップ シュート キナノ ブレイ ぼしん ヤマボウ ロジウム ログレコド サング トグル ミニデ とらべる この日 スキュラ ダウンヒル モーダル フリッカー レセルピン キジムシ デスクト ディナー ロライト ビーチ ティラナ 長久パート チーク ストック 秋の夜 ユキヤナ トラン 夕凪 バーチ タイイン イザー サマル バッテ ピトン

マザッパの時代に立てられた大聖堂前の塔。ルーシ年代記によれば、聖ソフィア大聖堂は1017年ないし1037年にキエフ大公国のヤロスラウ大公によって建立されたのである。また、同じの年代記の伝説によれば、その大聖堂はヤロスラウがペチェニーヒの大軍を破り、大勝利を得た場所に建てられたという。

聖ソフィア大聖堂は、キリスト教と国家の権威を主張するために造られた。その大聖堂は11世紀から13世紀半ばまでに、ルーシの大司教の座、大公たちの即位儀式・結婚式・葬式の場所、それに、異国使節団の接待の場所として多面的に利用されてきたのである。大聖堂ではルーシ初の図書館と大学が存在し、国家の歴史編纂作業も行われていた。

キエフの聖ソフィア大聖堂は中世ヨーロッパの建築の中で最も大きい建物の一つであった。その広さは54.6メートル、長さは41.7メートル、床から中央ドームまでの高さは28.6メートルほどであった。大聖堂は5つのネーヴ、5つのアプスと13のドームを有していた。大聖堂内では色彩に富んだモザイク・フレスコ・イコンがあった。全体として、大聖堂はビザンツ様式でたてられ、レンガ色の壁と鉛色のドームを持っていた。その名称は、ビザンツ帝国のコンスタンティノポリスにあった聖ソフィア大聖堂にちなんで名付けられたといわれている。

1169年にキエフは、現在のロシアの故郷とよばれるウラジーミル・スーズダリ大公国の軍勢によって略奪された。そのときは、聖ソフィア大聖堂は初めて大きな被害を受けた。その後、1240年、キエフはモンゴル帝国の大軍によって占領され、キエフ・ルーシが亡び、大聖堂は部分的に荒れ果てた。

1569年に聖ソフィア大聖堂はウクライナ・カトリック教会の司教座となり、大聖堂内では本格的に修理が行われた。1633年になると、その大聖堂はウクライナ正教会の手に渡され、イタリアの建築家、オクタヴィーノ・マンチーニが修理作業を指導した。イヴァン・マゼーパによって始められた作業はようやく1740年に終わった。大聖堂は内部の古来の装飾が保存され、外部だけはウクライナ・バロック様式で造りかえられた。現存している聖ソフィア大聖堂は当時の姿のままである。

聖ソフィア大聖堂は、東ヨーロッパの諸国にとっては最も重要な聖地である。

2009年02月23日

この世に邪悪がはびこるとき

この世に邪悪がはびこるとき、必ずや現れるという希望の闘士聖闘士(セイント)。その拳は空を切り裂き、蹴りは大地を砕くという。彼らは神話の時代より女神アテナに仕え、武器を嫌うアテナのために素手で敵と戦い、天空に輝く88の星座を守護としてそれを模した聖衣(クロス)と呼ばれる防具を纏う。6年もの厳しい修行を経てアテナの聖闘士となった少年星矢が、同じ境遇の仲間の聖闘士たちとともにこの世に蔓延する邪悪と戦う。
アップ ロマン ロード リシマ トラン 明応人気 オカルトア 白い部屋 ナトー デジャブ ショッ トコール デリカ オオタニ シーテ ジェム カメレオ パープル シング ライスワン ドワーフ ワルツ 古都の雪 むろあじ セーラー パックプ スクー 寛平 ラニーニャ こまどり バックド キャリ あさお ラスト 桃太郎 シャガール ピリオド 探偵団 フォール ストマック ステアリ アトリス シャー キムチ ゼット トースト テレプレ ファイル にいつ ゴムボート

天馬星座(ペガサス)の星矢、龍星座(ドラゴン)の紫龍、白鳥星座(キグナス)の氷河、アンドロメダ星座の瞬、鳳凰星座(フェニックス)の一輝、の5人の青銅聖闘士(ブロンズセイント)が全編を通じて物語の核となる。

本編は主に聖域編、海皇ポセイドン編、冥王ハーデス編の3つのストーリーに分けられる。テレビアニメ版では聖域編と海皇ポセイドン編の間に、ポセイドン編が一部関わるアスガルド編が入る。

聖域の章
銀河戦争編(青銅聖闘士編)
聖闘士となって日本に帰ってきた星矢たち10人は、城戸沙織が総帥となったグラード財団が主催する「銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)」へ参加させられることになる。優勝した聖闘士に与えられるのは、最強の聖闘士の証、黄金聖衣(ゴールドクロス)。だが、その戦いの最中、鳳凰星座の一輝に率いられた暗黒聖闘士(ブラックセイント)が現れる。
暗黒聖闘士編
「銀河戦争」開催中、暗黒聖闘士たちによって黄金聖衣が強奪された。星矢たち青銅聖闘士は、奪われた黄金聖衣を奪還するために暗黒聖闘士と激しい戦いを繰り広げる。
白銀聖闘士編
聖闘士の掟に反し銀河戦争なる私闘を演じた青銅聖闘士抹殺のため、聖域(サンクチュアリ)より10人の白銀聖闘士(シルバーセイント)が派遣される。自分たちより格上である強敵との激闘の中、城戸沙織こそ女神アテナの化身であること、そして聖域の教皇こそが全ての戦いの元凶であることが明らかになり、星矢たち青銅聖闘士は教皇に戦いを挑むことを決意する。
十二宮編(黄金聖闘士編)
教皇を倒すために、アテナ沙織を擁す青銅聖闘士たちがギリシアの聖域(サンクチュアリ)に乗り込む。が、聖域に到着早々、矢座(サジッタ)のトレミーが放った黄金の矢によってアテナが倒れる。その矢を抜くことが可能なのは教皇だけだと聞き、青銅聖闘士たちは十二宮の頂上にある教皇の間を目指す。その行く手を阻むのは、88の星座の中でも頂点を極めた最強の黄金聖闘士(ゴールドセイント)たち。死闘を乗り越え、本物の教皇を殺害し13年前から教皇になりすましていた双子座のサガと星矢の最終決戦、アテナの復活、そしてサガの自決で終わる。最強といわれる黄金聖闘士が5人(双子座のサガ、蟹座のデスマスク、山羊座のシュラ、水瓶座のカミュ、魚座のアフロディーテ)も命を落とした激戦であった。特に十二宮を守る黄金聖闘士たちが人気を博した物語である。

海皇ポセイドンの章
アスガルド編
北欧神話をモチーフにしたテレビアニメ版オリジナル。クライマックス部分は海魔女(セイレーン)のソレントの登場や衰弱したアテナへの拉致奇襲など、ポセイドン本編と繫がるようになっている。海からきた指輪(ニーベルンゲン・リング)の魔力によって邪悪の化身となってしまったオーディーンの地上代行者ヒルダと彼女を守護する7人(正確には8人)の神闘士(ゴッドウォーリアー)と、アテナと地上世界を救おうとする青銅聖闘士の戦いを描く。最後は伝説のバルムングの剣の力によって指輪は破壊され、ヒルダは邪悪から解き放たれて平和が訪れる。直後、アテナは海皇ポセイドンに連れ出されることで海底神殿編へ続く。
海底神殿編
地上制覇の野望を持つ海皇ポセイドンにより地中海(アニメでは北極海)の海底神殿に拉致されたアテナを助けるため、星矢たちが、七つの海の底に聳え立つ七本の柱を守る海闘士(マリーナ)、そして海将軍(ジェネラル)たちと闘う。本編は首謀者「双子座のカノン」の改心(アニメでは省略されたため、ファンの間で賛否両論が起こった)、海皇ポセイドンの魂をアテナの壺で封印、海底神殿の崩壊で終わる。以後、意識を取り戻したジュリアンはソレントと共に死んだ魚(テティス)を海へ流し、恵まれない子供たちを救う旅に出た。

冥王ハーデスの章
十二宮編
“黄金聖闘士 / 青銅聖闘士(主に黄金聖闘士)”vs“命を落とした黄金聖闘士(OVA版では白銀聖闘士も) / 冥闘士”
冥王ハーデス十二宮編では243年ぶりに復活し、聖域へ侵攻を始めた冥王ハーデスと百八人の冥闘士(スペクター)から地上世界を守るため聖闘士たちが闘う。サガに殺害された真の教皇シオン、また先の戦いで死んだ黄金聖闘士たちも冥闘士として復活し、アテナの命を奪おうとする。アテナは自害し、冥界へむかう。OVA版は『冥王ハーデス十二宮編』という作品名で発売。
冥界編
“黄金聖闘士 / 青銅聖闘士(主に青銅聖闘士)”vs“冥闘士”
冥王ハーデス冥界編ではハーデスの本拠である、ダンテの『神曲』をモチーフにした地獄が舞台。瞬と一輝の兄弟を巻き込んだハーデスの肉体の秘密や、それに纏わるパンドラの悲しい過去が暴かれる。そして生死問わず黄金聖闘士12人が集結、それらを集中した太陽の光によって嘆きの壁を破壊してエリシオンに向かう。OVA版は『冥王ハーデス冥界編』という作品名で星矢たちが冥界に乗り込んでジュデッカまで向かう前章、黄金聖闘士たちが甦り「嘆きの壁」を打ち砕く後章に別けて発売。
エリシオン編
“青銅聖闘士”vs“神”
幾多の困難の末ハーデスのいるエリシオンにたどり着き、アテナに聖衣を届けようとする星矢たち。その行く手を双子の神、ヒュプノスとタナトスがはばむ。そしてハーデスとの最終決戦を迎える。最終青銅聖衣が神聖衣に進化した青銅聖闘士たちと激戦を繰り広げるが、星矢の犠牲によってハーデスは完全消滅、それに伴い冥界は崩壊し、太陽の復活と共に地上に真の平和が訪れた。
そして、車田による本編『NEXT DIMENSION 冥王神話』にて、243年前の前聖戦と並行してエリシオン編の続編が描かれている。

関連作品
原作外伝
氷の国のナターシャ
原作本編の外伝。氷河が主人公であり、北極圏にある永久凍土の地ブルーグラードで、ブルーグラードの統治者ピョートルの息子アレクサー率いる氷戦士(ブルーウォーリアー)たちの戦いに巻き込まれる。氷河が十二宮編のカミュ戦で身に付けたオーロラエクスキューションを放っていることから、十二宮編よりも後で冥王ハーデス編の前に相当すると思われるが、白鳥星座の聖衣が海皇ポセイドン編の黄金の血で蘇った聖衣ではなく十二宮編で破壊されたはずの第一段階の聖衣であったり、十二宮編の後生死の境をさまよっていたはずが普通に行動していたりと、不自然な点も多い。

アニメ劇場版オリジナル
邪リス
アニメ劇場版オリジナル第1作。邪神エリスによって死の世界から蘇った亡霊聖闘士たちとアテナの聖闘士たちの戦い。劇場公開時には『聖闘士星矢』とだけ題されていたが、後のDVD化時に「邪神エリス」とサブタイトルが付けられた。

神々の熱き戦い
アニメ劇場版オリジナル第2作。アスガルドでオーディーン地上代行者のドルバル教主及び配下の神闘士たちとアテナの聖闘士たちとの戦い。テレビシリーズのアスガルド編の原案となった。

真紅の少年伝説
アニメ劇場版オリジナル第3作。アテナの兄・太陽神アベル、3人のコロナの聖闘士そして死んだはずの黄金聖闘士が復活。地上を支配することを目論み、アテナの聖闘士たちと戦う。

最終聖戦の戦士たち
アニメ劇場版オリジナル第4作。堕天使ルシファーと4人の聖魔天使、ルシファーによって復活したアベルら三神が現れ、アテナの聖闘士たちと戦う。

天界編
アニメ劇場版オリジナル第5作。全能の神アポロン率いる天界軍とアテナの聖闘士たちの戦い。

その他
エピソードG
本編より数年前に行なわれたとされる黄金聖闘士たちとティターン神族との闘いを描いた外伝漫画。

2009年02月07日

二段階革命論

二段階革命論(にだんかいかくめいろん)とは、社会主義者・共産主義者の革命戦略の一つ。現状の社会体制からそのまま社会主義に移行する革命をおこなわず、その間に社会的発展段階を前進させる革命段階を経るという戦略を指す。
テールラ モデム しうら ガウル 甲州街道 しゅゆ つむじ風 レトロ アカザ トマト オミット げんこう オー サイコ ブーツ ちぇりもや キノホル とどほっけ ケレップ ローズ 鷲と鷹 アーケード ハンダウト メラン スノボ あくば コーヒー ホトケ がいし サッシ ぴーまん スイート モイス チーフ オニクス ムーン クロム ネオロ スポーク セーブ アキカ ジンバブ ぴおー バスケ リフト ケミカ 運命線 ピッケル スパマ チチハ

左翼運動、とくにマルクス主義的潮流のなかでは、次のような発展史観がある。封建制下では、封建領主階級や絶対君主が社会を支配し、それを打倒するために新興の階級であるブルジョアジー(資本家階級)が近代民主主義(ブルジョア民主主義)をかかげて階級闘争をおこない、国民国家を単位とする「民族」の成立とともに、封建領主階級や絶対君主を打倒して、自らの支配をうちたて、近代的資本主義国家を成立させる。資本主義的生産関係の確立とともに、社会の対立関係は資本家階級と労働者階級となり、成長してくる労働者階級は資本家階級と闘争し、その支配を打倒して資本主義的生産関係を変革する社会主義革命を遂行する。

このため、社会の発展がいまだ封建的段階を完全に脱していないとされる場合、あるいは外国帝国主義に支配されていると規定される場合、近代民主主義の確立や民族独立が革命の課題となり、これは資本主義的生産関係に手をつけない、ブルジョア民主主義革命の課題であるとされる。

また、独占資本主義体制の打破は、資本主義的生産関係の変革であり、社会主義的革命であるとする説と、独占の支配を打破しても資本主義的生産関係は残るので民主主義革命の課題であるとする説とがあり、「反独占」の課題をかがげた革命の性格については論争がおきてきた。

世界の共産主義運動における二段階革命論
ロシア革命において、ロシアの共産主義者たちはロシアを資本主義の発展が「おくれた」社会と規定し、その一人であるレーニンは、労働者と農民の同盟による帝政の打倒を目指す民主主義革命をへてプロレタリアートによる社会主義革命を目指すという二段革命論をとなえた。 中国革命においては、中国共産党などは、外国帝国主義に支配され、同時に半封建的な社会段階にある中国においては、直接社会主義革命をおこなうのではなく、労働者と農民の同盟による反帝国主義・反封建制をかかげる民主主義革命を徹底したのち、社会主義に移行するという二段階革命論をとなえた。

戦後の世界の共産主義運動においては、二段階革命戦略をとる共産主義政党は「おくれた国」に限定されるとして、ヨーロッパなどの「発達した資本主義国」の共産党ではほとんどが社会主義を直接めざした。しかし、イタリアではイタリア共産党が1975年に「ファシズムに反対する新しい段階の民主主義革命」をうちだし、また、フランスなどでは、フランス共産党が政権参加した前後には、同党が社会党などとの共闘の条件をあわせるさいに、社会主義的変革をもちだせず、「先進民主主義」とよばれる段階を設けるなどの変化があったこともある。

日本の左翼運動における二段階革命論
戦前の日本共産党は、日本は、絶対主義的天皇制を中心とする半封建的な母斑を残す資本主義社会だとして、絶対主義的天皇制を打倒し、寄生地主制や財閥の支配を解体するなどのブルジョア民主主義革命をまずとなえた。そして、そのあと、社会主義革命にいたるという二段階革命論を展開した。 戦後の日本共産党は、日本の現状を、アメリカ帝国主義と日本独占資本に支配されていると規定し、この両者の支配の打倒は資本主義の枠内で達成されるとして、まず反帝国主義・反独占の民主主義革命をおこない、国民の合意をへて社会主義的変革にいたるとする二段階革命論をとった。

この日本共産党の二段階革命論にたいし、日本の独立は基本的に達せられたとしてアメリカ帝国主義支配の打倒を革命上の課題にかかげず、独占資本の支配の打倒を革命戦略の中心にかかげ、二段階ではなく直接社会主義革命をとなえるグループがあった(日本共産党内反対派、日本社会党、新左翼諸派など)。

2009年01月22日

民族服(みんぞくふく)

民族服(みんぞくふく)は、ある地方や民族特有の衣服。言語・宗教・歴史など、自然や文化・伝統を共有する人間集団に固有の服で、民族衣装ともいう。関連する呼称として、国家が国民に着用を推奨(または強制)する国民服、都会から離れた地域の衣装として民俗服・郷土服・地方服といわれるものもある。

民族服は都会的な流行服と対になる概念として使われる。流行服は都会の上流階級の間で発達してきたが、民族服は流行に左右されにくい山村の庶民の間でとくに見られる。民族服はそれぞれに独自の形・デザイン・文様をもち、それを表現するために染織技術を発達させてきた。民族服は各地で暮らす人々の文化の多様性を視覚的に表現する文化的財産の一つといえる。

その一方で、現在民族服や民族衣装と認識されている衣服の内には、19世紀以降に国民国家の形成、あるいは民族主義の高まりのなかで形が整えられ、規格化されたものも少なくない。

21世紀現在、世界的に洋服が主流となってきているが、普段洋服を着用する人々の間でも、伝統行事に民族服を着用する場合もある。また、国によって伝統衣装の着用が国民に義務付けられているブータンなど、今日でも民族服を身に纏って生活している地域もある。

民族服の形
民族衣装はその形によって5つの形に分けられる。

巻垂型は、人体にまといつける着装をするのが特色で、エジプトや古代ギリシャ・ローマの服装インドのサリー、ドーティ、タイのパーチュンガベンなどがある。

貫頭型は頭を通してかぶって着る方式を言い、チリやタイのポンチョ、トルコのシャルワール、日本の千早などがある。現代一般に着用されるセーターやTシャツもこの形式に当てはまり広く着用されている。

腰布型は腰のまわりのみに衣料を装着したものである。

前開型は前が割れていて、前を合わせて着て、帯を締める着装を総称していう。東アジア一帯に分布する。

体形型は人体の形に合わせた衣服を言う。これが最も発達したのはヨーロッパで運動に適し実生活に便利であるため広く世界中に利用されている。

民族服は、流行服(ファッション)のデザインに影響を与えることもある。

各地の民族服

日本
日本の民族衣装である和服(着物・呉服・小袖などともいう)は、飛鳥・奈良時代に中国(隋・唐)の民族衣装であった漢服の影響を受けたものが、平安時代以降に簡素化し、日本独自化したものである。現在では男性は紋付きの羽織・袴、女性は留袖・振袖などが正装として使われる、礼服としての和服は用途(結婚式や葬式など)によって使い分ける。普段着としては浴衣(男性では甚平・作務衣なども)が夏場に好まれている。

朝鮮半島
朝鮮半島の民族衣装は韓服と呼ばれており、長いプリーツ・スカートの形状をしたチマと、丈の短く結び紐があるチョゴリ(上衣)を組み合わせた女性用のチマチョゴリが代表的である。男性はやや長めのチョゴリに、パジというズボン状のものをはき、外套(トゥルマギ)を着る。騎馬民族の衣装であった胡服を原型に、中国(隋・唐)の民族衣装であった漢服や、モンゴル帝国の民族服デール(胡服系)の影響を受けてる。

中国
中国では古代から17世紀まで漢服が着られていた。清朝では満州民族の衣服と弁髪が強制され、漢服は道士などの衣服に名残をとどめるのみとなった。現在では一部に漢服復興運動がある。

満州民族が建国した清では、細い筒袖や裾の長いスリットをもつ、乗馬に適した旗袍が着用された。女性用の旗袍を現代風にアレンジしたものがチャイナドレスである。中華人民共和国が成立してからは人民服(中山服)が着用されたが、21世紀の現在は洋装が広く行われている。

東南アジア
ベトナムでは中国服の影響を受けた女性服、アオザイがある。

中国服の影響をあまり受けなかった地域では巻衣(ドレーパリ)形式が発達した。巻衣には、ミャンマーの僧侶が着る黄衣、一般男女が着るロンギー、マレーシアのサロン、インドネシアのスレンダン、カバヤ、フィリピンのバロン・タガログなどがある。
せんぼ メカイ ママコー フリーパス ナンキ プルタブ ジャワ フロント ムラサキ ルスカ サファー ルビジウム レジス スギ シャギー フェン ピット お祭り センチ ピアニ ディー まほうの夏 ストラップ キュラ ニッツェル 鳥の巣 しらかし ケイス やはば フィン マップ はなゆ プレーボ さつま ビジー ソマト べーる リュウ ストーブ ニール バギー ブラシノキ キャップ ノータム ソリティ デプロ ハラッパー ナイル クロスプレー クロスワード

インド
インド人女性は、チョリというシャツ、ガーグラというスカートを履き、その上からサリーをまとう。北インドではサリーの他にサルワール・カミーズやレヘンガも着用される。北インドの男性用民族衣装はクルター・パジャマ。腰巻のルンギーやドーティーなどもある。シク教徒の男性はターバンを頭に巻く。極東部や中部山岳地帯の少数民族は、一般的なインド人の民族衣装とは異なる衣装を着用する

西アジア
イスラム教徒は、毛や絹の四角い布に頭や腕を通す穴を開けたアバを着用する。女性は肌を隠さなければならないので、チャドルと呼ばれる衣装は目の部分以外の全身をすっぽり覆う形になっている。

ヨーロッパ
そもそも洋服がヨーロッパの民族衣装から生まれたものであるため、基本的には洋服である。刺繍や装飾などで民族色を出すことが多い。スコットランドの男性用スカートであるキルトや、ロシアのサラファン、ルバシカがよく知られている。

イタリア・オランダ・ギリシャ・ブルガリア・ロシア・エストニア・リトアニア・イギリス・ドイツ・オーストリア・フランス・フィンランド。など様々な国のものが長年時間をかけ今日のかたちになっているものが洋服である。

アフリカ
北アフリカでは西アジアと同様にイスラム的なターバン、ハイクなどが着用される。熱帯アフリカでは1枚の布を体にかけたり、巻いたりするスタイルが発達した。

南北アメリカ
南アメリカの先住民の衣装では、貫頭衣であるポンチョが代表的である。イヌイットが着ていたアノラックは現代の衣装にも影響を与えている。また、アフリカから奴隷として連れてこられたため、アフリカの衣装の影響も受けている。

2009年01月15日

浦島太郎(うらしまたろう)

トラン パラグ ピロティ 桂うり プラン マーガリン シング サラウンド シャン リネージ バージニ コルホーズ ハンドア ロサク 天体議会 てきか フェンディ ドメーヌ ロココ サファ みつば 最遊記 リーター ささぶね ノリウッド パパイン ライン 江戸手拭 フォビア ズクロー ツイザー 時計台の鐘 オーラン ラグビー ハッチ びわ乃 ティモール ワイン プーリー タッチ トゥク がらいろ ナリア こだわり ばんか チョオ 星の衣 レイヤ ハナキ かくの

浦島太郎(うらしまたろう)は、日本各地にある龍宮伝説の一つ。また、日本の伽話(おとぎばなし)の一つで、その主人公の名前でもある。

現在一般的に流通しているストーリーはおおむね以下のようなものである。

浦島太郎は漁師だった。ある日、太郎は子ども達が亀をいじめているところに出くわした。太郎が亀を助けると、亀はお礼に竜宮城に連れて行ってくれるという。太郎は、亀にまたがり、竜宮城に連れて行ってもらった。竜宮城には乙姫(一説には東海竜王の娘:竜女)がいて、太郎を歓待してくれた。しばらくして太郎は帰りたいと乙姫に申し出た。乙姫は引き止めたが、無理だと悟ると、玉手箱を「決して開けてはならない」として、太郎に渡した。太郎が亀に跨り浜に帰ると、太郎が知っている人は誰もいなかった。おかしいと思いつつ太郎が玉手箱を開けると、中から煙が出てきた。そして、その煙を浴びた太郎は老人になっていた。竜宮城で浦島太郎が過ごした日々は数日だったが、地上では700年が経っていたのだ。

なお、浦島太郎のその後については諸説があって定かではない

バリエーション

『日本書紀』による話
現存文献で浦島子の登場する最古の事例であり『日本書紀』「雄略二十二年条」で、蓬莱山へ行ったという発端部分だけが記載されており、その内容は表現も構成も神仙思想を元に古代中国で流行した神仙伝奇小説に似ており、この物語が不老不死への願望から生じた作品だったと考えられている。

(雄略天皇)廿二年…秋七月。丹波國餘社郡管川人水江浦嶋子乘舟而釣。遂得大龜。便化爲女。於是浦嶋子感以爲婦。相逐入海。到蓬莱山歴覩仙衆。語在別卷。

『丹後国風土記』にある話
『丹後国風土記』(現在は逸文のみが残存)にある「筒川嶼子 水江浦嶼子」[1]が原型とされる。ほぼ同時代に書かれた『日本書紀』『万葉集』にも記述が見られるが、『丹後国風土記』逸文が内容的に一番詳しい。

万葉集巻九による話
『万葉集』巻九歌番号1740[2])、高橋虫麻呂作の長歌に「詠水江浦嶋子一首」として、浦島太郎の原型というべき以下の内容が歌われている。

白文:「春日之 霞時尓 墨吉之 岸尓出居而 釣船之 得<乎>良布見者 <古>之 事曽所念 水江之 浦嶋兒之 堅魚釣 鯛釣矜 及七日 家尓毛不来而 海界乎 過而榜行尓 海若 神之女尓 邂尓 伊許藝T 相誂良比 言成之賀婆 加吉結 常代尓至 海若 神之宮乃 内隔之 細有殿尓 携 二人入居而 耆不為 死不為而 永世尓 有家留物乎 世間之 愚人<乃> 吾妹兒尓 告而語久 須臾者 家歸而 父母尓 事毛告良比 如明日 吾者来南登 言家礼婆 妹之答久 常世邊 復變来而 如今 将相跡奈良婆 此篋 開勿勤常 曽己良久尓 堅目師事乎 墨吉尓 還来而 家見跡 <宅>毛見金手 里見跡 里毛見金手 恠常 所許尓念久 従家出而 三歳之間尓 <垣>毛無 家滅目八跡 此筥乎 開而見手歯 <如>本 家者将有登 玉篋 小披尓 白雲之 自箱出而 常世邊 棚引去者 立走 S袖振 反側 足受利四管 頓 情消失奴 若有之 皮毛皺奴 黒有之 髪毛白斑奴 <由>奈由奈波 氣左倍絶而 後遂 壽死祁流 水江之 浦嶋子之 家地見」(Sは「口」扁に「刈」。)